[創価学会と私]学会3世が本音を語る。宗教勧誘の実態と私が学会活動をやめた理由。

あなたは宗教の勧誘を受けたことがあるでしょうか?

怖いですよね。

宗教の教えを盲目的に信じ、
迷惑も省みず、
聞きたくもない話を延々としゃべり続ける。

勧誘してくる人は
こんな人だったと思います。

そしてそれは、
学会3世の僕が熱心に知り合いを
勧誘していた頃の姿そのものです。

ちなみに学会3世とは、
祖父母、両親、自分、と3代にわたって
創価学会に入会していることを意味します。

 

僕は生まれるとほぼ同時に入会し、
幼少期から組織の中で育ちました。

教えられたとおりに生きれば
幸せな人生を送れると信じ、

社会人になると、
知人を宗教に勧誘するようになります。

この記事では、

創価学会における勧誘の重要性、
僕が知人を勧誘していた真意、
実際にしたことと心の葛藤、
勧誘その他一切の学会活動をやめた理由、

を書きます。

あくまで僕の例でしかありませんが、

一人の人間が宗教にのめりこんでいく過程、
そこから離れることになったきっかけ、、、

そうしたことをお伝えできれば嬉しいです。

 

念のために、
はじめに書いておきたいのですが、

この記事には、
創価学会や所属する人を攻撃する意図はありません。

学会の人の中には、
僕に優しく接してくれたり、
悩みの相談にのってくれたりする人も多くいて、
そのことにはとても感謝しています。

ただ僕は、僕の身に起きた個人的な体験や
自分がしたこと、見たもの、聞いたことをとおし、
創価学会や宗教を信じるのを辞めることにしました。

宗教を信じるのも、信じないのも個人の自由のはずで、
僕は後者をとることにした、というだけです。

前者をとる人のことを、
とやかく言うつもりはありません。

■創価学会における勧誘の重要性

創価学会は仏法を信奉する団体で、

日常生活における大切な行動指針として
信・行・学(しんぎょうがく)という有名な言葉があります。

信とは、仏法を信じること。
行とは、仏壇に向かい、祈ること。また、「人を仏法の道に導くこと。」
学とは、仏法を学ぶこと。

これらの「修行」を実践することで、
本来、備わっている良い心(仏の生命)を引き出し、
自身を良い方向へ変革して幸せになっていく。

こうした生き方が理想とされています。

人を創価学会へ勧誘することは、
人を仏法の道に導くことであり、

信・行・学でいうところの、「行」にあたります。

だからこそ学会に所属する人たちは、
修行の一環として、
熱心に身の回りの人を勧誘するわけです。

■得られる功徳(くどく)

ここからが極めて重要な点です。

自分の友人に創価学会への入会を勧める。

この行動には、
とても大きな功徳(くどく、ご利益のようなもの)が
あるとされています。

自分の願いが叶ったり、とか、
身近に良いことが起こったり、とかそういうことです。

もちろん、組織の人たちからも、
たくさんの褒め言葉をもらうことができます。

で。

建て前上、勧誘の目的は、

人に仏法を教え幸せになってもらうため、

ということになっている。

でも。

私の身の回りにいる若い学会員をみると、
勧誘の目的が、

功徳を受けるためや
組織の人たちから褒めてもらうため、、、

そんな例がとても多いように見えました。

実際、僕もそうだったんです。

勧誘する相手の幸せを願う気持ちと、
功徳により自分の願いを叶えたい気持ち。

この2つを比べたときに、
後者の方が大きかったんです。

この気持ちにはどうしてもウソをつけません。

■僕が友人を勧誘していた理由

じゃあ、僕が功徳という、
いわば超常的な力に何を期待していたのか。

それは自分の心の問題の解決なんです。

 

僕は、高校生のときに孤立して一人ぼっちになったことがあり、
以降、ずっと人間関係の悩み、心の悩みに苦しんできました。

自分が嫌い。
自信がない。
悲観的。
落ち込みやすい。
周りに馴染めない。
など。

生きていても自分の人生によいことなど
起こらないと思い詰め、

もう死んでしまいたいと思うことも何度もありました。

で。

こうした漠然とした心の悩みって、
解決の糸口すらつかむことが難しいんですよね。

精神科に行っても、
自傷行為や不眠などの目に見える症状がないから、
病気とは診断されないし、

カウンセリングを受けようにも、
誰に受けるのが適切かも分かりません。

 

それで僕は
功徳という言葉に飛びついたんです。

これまでも自分の心を磨き、
よいものにするため(仏の生命を引き出すため)に、
たくさんの祈りを捧げてきた。

1日に何時間も祈ったこともある。

それでも依然として、自分は自分を嫌いなままだし、
周りとも上手くやっていけない。

だったら、祈る、以上のことをする必要が
あるんじゃないか。

それは人を勧誘することだ。
人を仏法に導くことだ。

そうすれば、自分の心はもっと磨かれるはずだし、
功徳の力によって、
自分の心の問題も解決できるはずだ。

こう考えて、僕は知人への勧誘を始めました。

■勧誘の実態

まずはじめに、
自分の電話帳から
勧誘の話ができそうな人を探すんです。

職場の人を選ぶと、
噂がたって、自分の居心地が悪くなる危険性があります。

だから、
学生時代に付き合いのあった友人を
選ぶことが多いです。

 

電話をかける前、毎回、思います。

「突然電話をかけてこられるわけだし、不審に思うだろうな。。」
「気持ち悪がられたらどうしよう。。」
「嫌われたらどうしよう。。」

不安を振り払い、
意を決して、電話をかける。

久しぶりだね!から始まり、
せっかくだし、ちょっと会ってごはんでも食べようよ、
といって、誘い出す。。

 

そして、ごはんを食べながら、
話を切り出します。

相手が聞きたいとも言っていないことを、
唐突に喋り出すんです。

自分は宗教を信じることで、こんなにいいことがあった。
宗教があったからこそ、こんなふうになれた。

だから、あなたも信じてみようよ。
創価学会に入会しようよ、と。

■「宗教を信じる自分よりも、信じていない相手の方が幸せなんじゃないか。」

喋りながら、僕の心の中には
いつも矛盾する思いがありました。

幸せになれるはずの宗教を信じながら、
まったく幸せになっていない自分。

心の悩みで頭は一杯。
それを解決するために功徳がほしくて、
今、勧誘をしている。

一方で、
特定の宗教を信じていない友人は幸せそうだ。

聞くところ、
自分ほどの深刻な悩みも抱えていないようにみえる。

そしてこう思うんです。

「宗教を信じる自分より、
信じていない相手の方が幸せなんじゃないか。」

それでも、この矛盾する思いを振り払います。

そして、自分が宗教によりいかに幸せになったか、
というウソのストーリーを必死に語るんです。

■去っていく友人たち

声をかけた人はほとんど皆、
僕に失望して去っていってしまいました。

当たり前です。

旧交を温めにきてくれたと思ったら、
実は、宗教の勧誘という
別の目的があったわけです。

勧誘に利用された。
宗教の話にカンタンにのるようなチョロい人間と思われた。

そう憤慨してもおかしくありません。

僕の行動は、
自分の心の問題を解決するために、
自分勝手に友人を利用しただけです。

友人の時間を奪い、心を傷つけた。
僕に対して抱いてくれていたかもしれない信頼を、
僕は自分の手で台無しにした。

今では僕は、自分の行動をとても恥じていて、
声をかけた皆に、謝りたい気持ちでいます。

 

学会の組織の人は皆、
人に入会を勧めた行動を褒めてくれます。

そしていいます。

一時的に友人は離れてしまったかもしれないけれど、
いつか分かってくれるときがくるよ、と。

僕はその言葉に納得がいかないんです。

もう、あのときの友人は戻ってきません。
連絡がつかなくなってしまった人もいます。

僕は自分の手で、
友人とのつながりを断ち切ってしまったのだし、
そこにはただ、後悔しかありません。

■勧誘その他一切の学会活動をやめた理由

僕は勧誘を、
もっというと創価学会に関連する一切の活動をやめました。

諦めたんです。

1日に何時間も祈ったこともあるし、
すでに書いたように、何人もの人に対する勧誘もしました。

幼少期から数えれば、それこそ、
何十年もかけて膨大な時間を費やしてきたんです。

それでも、
自分は心の問題を抱えたまま、
いっこうに幸せだと感じる状態にならない。

そればかりか、勧誘により友人を傷つけ、
失うことにもなった。

これだけやってもダメなら、もうダメだ。

心の底から、そう思いました。

それで、宗教ではなく、
現実的な方法で幸せになろうと思ったんです。

■最後に

宗教を諦めた僕は、
もう一度、自分の心の問題と向き合うことにしました。

本で調べ、インターネットで検索し、
ようやくたどり着いた先で
適切な回復の方法を知ることができました。

その結果、
宗教に費やしてきた歳月よりも
圧倒的に少ない時間で
心の問題が回復に向かっています。

 

宗教から離れてみると、
超常的な力に頼って心の悩みを解消し、そして幸せになろうとした
過去の自分が滑稽に思えます。

僕の問題の解決に必要なのは、
祈ったり、人を宗教に誘ったりすることではなく、
適切な治療だったんです。

 

「そりゃそうだろ。」と笑われてしまいそうですね。

でも僕と同じように、
問題に対する現実的なアプローチを考えるのを放棄し、
宗教にその問題の解決を期待している人は多いように見えます。

「高収入にしてください。」と願いながら、
就職も転職もスキルアップもしようとしない、とか。

「丈夫な身体にしてください。」と願いながら、
生活習慣を見直そうとしない、とか。

そういう人を僕は実際に見てきました。

 

僕がもう一度、宗教にのめりこむことは
おそらくありません。

実際にやってみて、幸せにならなかった。

このシンプルだけど重い事実があるからです。

今までは宗教の教えに従っていればよかったけれど、
これからは自分の頭で考えていかなくてはなりません。

不安はあるけれど、少しずつ、
それに慣れていこうと思っています。

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