本記事では家族、主に両親について書きます。
僕が愛着障害を発症することになった、
もっとも大きな要因と思っています。
幼少期の家族構成は両親、母方の祖父母、
兄、弟、そして僕です。
父親はサラリーマンで、母親は専業主婦でした。
食べるものに困ることはないですが、裕福な家でもありません。
収入は地方において平均より少し下くらいだったと思います。
父親は外でお金を稼いできて、母親は家を守る、、、
そんな昔ながらの家でした。
まずはじめに両親の性格をここに書こうとしたのですが、
はたと手が止まってしまいました。
分からないんです。どんな人なのかが。
生きていると、
「この人は何を考えてるのかよくわからないな。」
って人と出会うことがあると思うんです。
僕はその感想を両親に対して抱きます。
たぶん両親ともに、自分の気持ちや感情を
率直に表現することがないから、
何に怒り、悲しみ、喜び、
何を楽しいと感じるのか、、、
その人の性格を判断するための
情報が僕にないんだと思います。
両親とも周囲からは穏やかな人と見られていましたが、
実際に、そういう性格であったかといわれると少し疑問です。
確かに、子供に対して不要に声をあらげたり、
暴力をふるったりしたことは一度もありません。
ちょっとした口論めいたものはあっても、
大声で怒鳴り合うような夫婦喧嘩を見たこともありません。
でも実際のところは、
両親のどちらとも自分の内に抱えている気持ちや感情を
外に表現するのが上手でなく、結果として、
落ち着いた人にみえていただけな気がします。
そんなわけで、両親の性格を言葉で伝えるのが難しいため、
親を語るにあたり、
親が子供に対してとってきた行動から、その人となりを説明させてください。
父親は家庭や子供のことに自分からは関与しようとしませんでした。
家事・育児はすべて母親に任せていて、
自分の責任の範疇にないと考えていたのかもしれません。
父の態度は、こちらが求めれば与えてくれる、
という受け身な姿勢で一貫していました。
分からないことを聞けば、教えてくれる。
塾までの送迎をお願いすれば、車を出してくれる。
悩みを話せば、何らかの答えを返してくれる。
話をすれば、反応してくれる。
ただ、父が自ら子供に対して何かをしてくれたり、
優しい言葉をかけてくれたりすることはほぼありませんでした。
今になって分かることですが、
父のこうした姿勢は、父自身のナイーブな傷つきやすい心を
守るためであった気がします。
自分から心を開いて相手に近づいていったときに、
拒絶されるのが怖い。
だから、自分からは近付かない。
依頼されたこと、相手からの要求にだけ答える。
自分の子供に対してだけではありません。
親戚が一同に会する場や、創価学会の集会でも、
父は自分から話題をふったり、人と仲良くなろうとしたりは
しません。
あたりさわりのない会話に終始し、その場をやりすごす。
人に傷つけられないために、自分の心を閉じて守っているのだ
と思います。
この想像はおそらく当たっています。
なぜなら、僕も父とまったく同じ考え方で、
人間関係を避けて生きてきたからです。
そして僕が愛着障害であるように、
父もまたそうした心の問題を抱えていたといえそうです。
そんな父に対し、一方の母親は、
家事・育児を任されているはずですが、
とにもかくにも創価学会の活動が第一優先でした。
学会の熱心な活動家で役職をもっているような人は、
とにかく忙しいです。
母もその一人で、昼も夜も、あちこちの集会に出かけ、
機関紙を人にすすめ、数字を管理し、、、と
めまぐるしく動き回っていました。
専業主婦にもかかわらず家を空けている時間も多く、
夜の晩ごはんのときなど、話したいときに
母が家にいないことに寂しさを感じたのを覚えています。
母いわく学会活動は家族の幸せのためにしているもの。
そして何よりも優先すべきもの。
家事・育児はその余りの時間でするものであり、
やりきれない分は、おおいに祖母を頼りました。
当時の家庭は祖母なくして回らなかったと思います。
今思うに、なぜ母親がそこまで宗教にのめりこんでいたかといえば、
現実から逃げたかったからだと思います。
若い頃に自身が希望する進路をとれなかったこと。
自分の周囲の人たちと比べて世帯収入が少なく、
周りのもっているものが自分には手に入れられないこと。
こうした悔しさを会話の中にかぎつけたことがあります。
もちろんこれだけではないでしょうが、
おそらく母は、そういった悔しくてどうにもならない現実を
一人で受け止めきれなかった。
その悔しさ、苦しさにも意味があるのだと
誰かに肯定してほしかった。
もっと幸せになりたかった。
母は自分の気持ちに向き合って折り合いをつけるでもなく、
幸せになるための現実的な方法を考えるでもなく、
もっとカンタンに自分を肯定してくれ、
かつ将来の絶対の幸せを約束してくれるものに頼った。
それが宗教だったのだと思います。
母が子供と一緒にいるときの態度は、
言うことを聞き「いい子」にしているときだけ優しく、
そうでないと不機嫌になる、という姿勢で一貫していました。
子供であれば、わがままを言ったり、親の言うことに反発したり
することもあると思います。
でも母はそれを受け入れませんでした。
僕がそうした態度をとれば、むくれて、ふてくされ、
「じゃあ、もういい。」と言って、以後の会話を拒否しました。
子供のわがままを受け入れるだけの度量がなかったし、
母自身が精神的にとても幼かったのだと思います。
こうしたことによって僕は、自分の素直な気持ちを
そのまま親に伝えることに危険を感じるようになり、
どんどんと「いい子」の振る舞いをするようになっていきます。
また、母は、学会活動による疲れなのか、
とにかくいつもウトウトと眠そうにしていました。
幼少期、一緒に布団に入っても、
会話するでもなく、子供よりも先に寝てしまう。
晩ごはんを食べれば、すぐに横になってしまう。
学会活動以外の、限られた一緒にいる時間でさえ、
母は僕を気にかける素振りを見せてくれませんでした。
幼少期は特に、母のそうした態度を寂しく感じていました。
そんなわけで、両親ともに、
子供に強い関心を向けなかったし、
その気持ちを汲み取ろう、理解しようとはしませんでした。
僕は「学校はどうだった?」「楽しかった?」などの声をかけられた
覚えがないし、
親が自分の話に心からの興味を示してくれたり、
大きなリアクションで応えてくれたりした記憶もないんです。
強く抱きしめられた覚えもありません。
父親はお金を稼ぐだけ。
母親は学会活動をするだけ。
ともにそれだけで家族への自分の役割を果たしたと考えており、
子供を愛そう、という能動的な意志を欠いていた。
衣食住を与えることが子育てのすべてだと思っていて、
子供の気持ちを気にかける、とか理解しようとするといった、
それ以外の精神的なケアはオプション、
つまり「できるならした方がよいこと」だったのだと思います。
そして「できなかった」のだと思います。
両親にそうする気持ちがなかっただけの可能性もあるし、
あるいは、親自身が心に問題を抱えていてそうする能力が足りなかった可能性もあります。
もちろん両親とのよい思い出が何もないわけではありません。
家族で旅行にでかけたこともあります。
父はときおり冗談をいって家族を笑わせてくれました。
母は僕が高校生のとき、毎朝お弁当を作ってくれました。
夏休みに自由工作や読書感想文の面倒をみてくれたり、
逆上がりの練習を手伝ってくれたりしました。
こうしたことに親から子への愛情をみることもできるし、
そのことには僕も感謝しています。
愛情は確かにあったのだと思います。
ただ、
日常生活の大部分において、
両親が、意図的でないにせよ、
子供の心を無視し続けていたのは確かだし、
その結果、子の心を育むという、
もっとも難しく、かつ重大な責任を果たさずに、
子育ての期間が終わったと思っています。
こうした親子関係、親による情緒的ネグレクトを主な要因として、
僕は愛着障害になったのだと思います。
親子関係が原因で子供に心の問題が起きた場合、
悪いのは100%親だと思います。
子の心を育てるのもまた親の責任だと思うからです。
ただ、僕の場合でいうと、これまでに書いてきたとおり、
親自身もまた心の問題や苦しい現実を抱えていて、
一方的に責める気持ちにはなれません。
僕は完全に被害者だけれど、
親に対して同情めいた気持ちも少し湧いています。
なんだかモヤモヤとする終わり方ですが笑、
この記事が、両親との問題に苦しむ方にとって、
少しでも参考になったり、共感してもらえたりすれば嬉しいです。
僕はまだ愛着障害を完全に克服しているわけではなく、
治ったら、両親をまた違った見方でみられるかもしれません。
そのときは、本記事を加筆・修正しようと思います。
fin
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