「できない」と「やらない」。

人に言われた言葉が妙に心に残り、
ことあるごとに思い出しちゃう。

そんな経験ありませんか。

ぼくにはあるんですよね。

 

それは、ぼくが22才のとき。

当時、所属していた大学の研究室で
教授からいわれたんです。

「あなたね、今、できなかったっていいましたけどね。
それはできなかったんじゃない。
やらなかったんです。
できない、っていうのはとても強いメッセ―ジです。
軽々しく使うもんじゃありません。」

叱責っていうわけではないんです。

穏やかな口ぶりで、諭すように。

言われたとき、がつんと頭をたたかれたようなショックを受けました。

その先生は、こういう類の道徳めいた忠告をする先生では
なかったからです。

でも、時間を経過するごとに、
その言葉はぼくの心の中で重みを増して、
10年以上たった今でもことあるごとに思い出すんですよね。

 

経緯を話しますとね。

当時のぼくは、学会に提出するために論文を書いていたんです。

で、草稿を教授にみせてコメントをいただいた。

先生「まとめの段落に書いている内容が煩雑なので、
ポイントを絞って、箇条書きで記述しなさい。」

でね。

先生がそういうなら、と、
ぼくももちろん、箇条書きに整理しようと
四苦八苦するんですけど、

でも、そうしちゃうと、行数をとっちゃうので、
書きたかったことを全部収めることができないんですね。

で。

ぼくは、浅はかにも、箇条書きにしてわざわざ内容を削らなくても、
なんなら今のままでもよいのではと考えた。

教授は、重要な部分を残して、
それ以外をごっそり削れといっているのに。
教授は、その方が読みやすくなるから、と言っているのに。

 

でね。

後日にね。

ぼくは教授に伝えるんです。

ぼく「箇条書きにしようとしましたが、できませんでした。」

と。

そこで、冒頭の教授の言葉です。

「あなたね、今、できなかったっていいましたけどね。
それはできなかったんじゃない。
やらなかったんです。
できない、っていうのはとても強いメッセ―ジです。
軽々しく使うもんじゃありません。」

 

うん。

今となっては、よくわかるんですよね。

先生のおっしゃるとおり、
ぼくは「できなかった」わけじゃなく、
「やらなかった」んです。

先生の言葉をなんとしても忠実に守ろうとすれば、
文章を削り整理して箇条書きにまとめなおすことくらい、
できないわけがない。

22才のぼくは、先生の言葉を軽く扱ってしまったんですね。

「できない」という言葉で、
軽々しく先生のアドバイスをはねつけてしまった。

なんとしても、先生のアドバイスとおりに論文を仕上げようという
気持ちが圧倒的に不足していたんです。

経験不足の若造が、教授のアドバイスを無下にするなど、
なんて浅はかだったんだろうと思います。

とても反省しましたね。

 

このことがあって以来ね。

「できない」と「やらない」。

この2つの言葉を使うとき、とても注意するようになったんです。

 

先生がいったとおり、
「できない」というのは、本当に強いメッセージなんですよね。

会話している相手に対して、「できない」と主張することは、
シャッターを下ろすことと同じ。

それ以上のことは、言ってくれるな、とバリアーをはるのと同じ
なんですよね。

そこから、建設的な話は広がっていかないです。

 

自分は今、「できない」と考えているけれど、
それは本当は「やりたくない」だけなんじゃないか。

そんなことを一歩立ち止まって考えるようになったんです。

「できない」はどうしようもないけど、
「やりたくない」だけなら、
工夫次第で乗り越えられる。

「できない」が本当は「やりたくない」だけだったと気付けると、
そこから打開策が見えてくることがあるんですね。

 

とまあ、こんなふうに。

若かりし頃に教授から言われた一言が、
いまだにぼくの胸に残り続け、
ことあるごとに思い出される。

先生は、とても意味のある言葉を
ぼくに残してくれました。

本当に感謝です。

今もお元気でしょうか。

お元気ですよね、きっと。

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