「やっててよかった公文式!!」
こんなCMを覚えている方もいるでしょうか。
僕はその公文へ兄と一緒に通っていました。
幼稚園の頃から小学校の高学年までです。
自分のペースで先へ先へと進んでいける塾のスタイル。
これが僕の性格に合っていたのもあるし、
もちろん元々の適性もあったと思うけれど、
通い続けるうちに、学校の授業やテストが
自分にとってどんどんカンタンになっていきます。
以後の中学、高校、大学。
いわゆるコミュニケーション能力を
ろくに身に付けることなく育った僕は、
「人よりも勉強ができること」をほぼ唯一の
武器として人生を生き抜いてきました。
そしてその礎は、
幼稚園から小学校にかけてのこの公文式により
築かれたと思っています。
本記事では、
幼稚園の思い出、
公文に通い始めるきっかけとなった兄のこと、
勉強に対する当時の思い、
勉強で目立つことが人生に与えた影響、
を書きます。
■楽しかった幼稚園
幼稚園は楽しかったです。
保育園時代のような特別なエピソードはありませんが、
ただ、通うのが楽しかったのを覚えています。
当時、特別に仲がよくていつも一緒に遊んでいたのがI君。
彼を含めた友達と一緒に、
段ボールやイスを使って室内に秘密(どこが?)基地を作ったり、
ませた男の子が女の子にチューをしたといって皆で騒いだり。
そんな記憶があります。
のちの人生で僕は、
愛着障害からくる人間関係の悩みをずっと抱えつづけますが、
この時代だけは、とても無邪気に自然と友達をつくることができた。
さらに、その交流を楽しむことができたんだと思います。
にわかに信じがたいことですね。
人と心を通わせて交流を楽しむ能力を
コミュニケーション能力とよぶなら、
僕の人生におけるその能力のピークは
この幼稚園時代といえそうです。笑
人間関係の悩みに苦しみ続けた以後の人生、
僕のコミュニケーション能力は低迷し続けます。
■優しかった兄
2つ上の兄は僕に優しかったです。
一緒におもちゃで遊んだり、
野球をしたり、
ゲームをしたり、
「うんこ」「ちんこ」に類する
下品な言葉を連呼しあって
ゲラゲラと笑い転げたり、
小学校に入ってからは、
父が隠しもつエロ本を家中、
一緒に探し回ったり、、、
そんな思い出はたくさんよみがえってくるけど、
ただ、おもちゃを奪い合ったとか、
取っ組み合って殴り合った、とか、
兄とけんかした記憶をまったく思い出せないんです。
今思い出してみると、
けんかになりそうなとき、
兄は弟の僕になにかと譲ってくれていたんだと思います。
あるいは、親に「お兄ちゃんなんだから」と
ガマンをさせられていたか。。
今となっては定かではないですが、、
とにかく兄は僕に暴力をふるうなどの
泣かせるようなことを全くといっていいほど
しませんでした。
そんな兄は恐怖とか尊敬の対象ではなく、
もっとフラットな存在で。
それをいいことに、僕はずいぶんと好き勝手な振る舞いを
していたと思います。
兄が太れば、
「やーい!でーぶ、でーぶ!」とからかい、
思春期になり兄のスネに毛が生えてくると、
「やーい!スネ毛ー!」とはやしたてる。
やがて自分は兄以上に太ることになり、
もちろんスネ毛も生えてくるわけですが。。
その他、
「余計なことすんなよ。」
「きもちわりーな。」
などの言葉をぶつけたことも、
前後の文脈も含めて覚えています。
こう考えると、
僕の好き勝手な振る舞いを
家族の中でもっとも受け入れてくれたのは、
親ではなく、兄だったかもしれません。
逆に、僕がここに書いたような悪口を
言われた覚えはあまりなく。
兄は弟の悪ふざけをニコニコと受け入れつつ、
やはりずいぶんとガマンもしてくれていた
のかもしれません。
今になって
とても申し訳ない気持ちになってきました。。
■公文に通うきっかけは兄へのライバル意識
何かと弟に譲歩し、譲ってくれる兄。
そんな兄に、一方で僕は強烈なライバル意識をもちます。
この思いは幼稚園から始まり、
中学生の頃まで続きます。
兄と同じことがしたい。
兄に追いつき、追い越したい。
これは、なんとなくの思いではなく、
メラメラと山火事が燃えるような感情でした。
例えば。
・兄がカッコイイ靴をはいていれば同じのをはきたい。
兄より身体の小さい自分に合うサイズがなく、はけないと分かると、
悔しくてずっと泣き続けました。
・兄の勉強の成績を越えたい。
中学校になってテストの校内順位が出るようになると、
僕は兄の順位を強く意識し、自分がそれより上であると
強い優越感を感じていました。
・兄が学級委員を務めたなら自分もやりたい。
小学校や中学校で学級委員に推薦されたときに僕がそれを引き受けたのには、
「兄がすでにそれをしている」ことへの強い対抗意識がありました。
というように。
僕が公文に通い始めたのも、
兄と同じことがしたい、との一心でした。
幼稚園に通っていた僕は、
兄がどこかへ通い始めたのを知った。
そして親に訴えます。
「自分も行きたい!」
と。
そこが塾であるとの認識もなかったと思います。
成績をあげたいわけでもなく、
勉強がしたいわけでもなく、
ただ兄と同じことがしたかったんです。
幸いにも、そんな僕の訴えを親は受け入れてくれました。
こうして僕は、兄とともに
公文へ通い始めたのでした。
■勉強が得意になる
当時、
僕が通っていた公文の教室では、
プリント学習がメインだったように思います。
(現在のことは分かりません。)
先生はカンタンな講義や説明をするだけ。
あとはプリントをくれるので、それを解く。
幼稚園児が消化すべきプリントをすべて終えると、
先生は小学一年生向けのものをくれる。
こうやって、自分の学習スピードに応じて、
どんどん先に進んでいくことができました。
自分のペースで勉強を進めていけるこのスタイルが
僕にはとてもマッチした気がします。
もらったプリントをいかに早く終わらせるか。
次のステップへいかに早く進むか。
それは僕にとってゲーム感覚でした。
公文に通うことを苦痛に感じた記憶もありません。
授業を先取りするように、どんどん学習を進め、
小学校の高学年になったときには、
中学生の勉強を進めていました。
そんなわけで、
学校の授業もテストも僕にとってはとてもカンタンで。
幼稚園の頃に始めた公文式により、
僕は「勉強のできる子」として小学校時代を
過ごします。
■のちにリーダー役をまかされ子供らしさを失っていく
幼稚園時代に公文を始め、
以後、先取り学習により、小学校の勉強でまわりを圧倒したこと。
このことが僕の人生に与えた影響はとても大きいです。
もちろん、よい成績をとって親や先生、友達から褒められれば嬉しいし、
それは自分は特別なのだという優越感や自分を肯定する気持ちをもたらしてくれました。
その一方。
僕は勉強ができることで目立ち、そのことを大きな要因として、
学級委員などのクラスのまとめ役を任されるようになります。
すでに書いたように、兄への対抗意識から
学級委員を務めることに意欲はあったものの、、、
こうした役回りは僕にこんな意識を植え付けました。
「模範生としてあらねばならない。」
「下手なことをしてはいけない。」
この意識は、
自分の行動や感情の表現に
制限をかけるはたらきをしました。
子供らしいのびのびとした振る舞いをすることに
自らブレーキをかけ、
大人らしい振る舞いをとるようになっていきました。
このようにして僕は、
子供時代を子供らしく生きられなくなります。
感情を思うままに解放し、それを周囲と交換したり
ぶつけあったりする機会を失います。
これらのことは、僕が愛着障害になった原因の一つだと
思っています。
fin
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