あまりにも有名。
でも、語らずにはいられないから、
語らせてほしいのです。
村上春樹は、彼が敬愛するスコット・フィッツジェラルドの作品である、
「グレート・ギャッツビー」について、ある本の中でこう書いています。
作品中のどのページを開いても、
惚れ惚れするほどに美しいと。
察するに、
文体とか、表現とか、描写の仕方とか、
そういう1つ1つが、村上さんの心を揺り動かしてやまない、
ってそういうことなんだと思うんです。
これを読んだとき、
へー、そんなこともあるんだな、と思った。
どのページを開いても、ってことは、
作品の中にクライマックスがあるとして、
起承転結の、そのすべてがおもしろい、美しい、ってことです。
前フリの部分も含めて、全部ですよ。
音楽でいうと、
サビ部分だけじゃなく、
AメロもBメロもたまらなくいい、みたいな感じでしょうか。
その曲を思い出すときに、
サビだけじゃなく、
その前フリまできちんと思い出すことができて、
どの部分を聞いてもステキだと思えるみたいなことでしょうか。
自分の場合、なんだろう。
最近の曲でいうと、
YOASOBIの夜に駆ける、とかは
曲の全パートが聞いていて心地よい。
昔の曲でいうと、
エレファントカシマシの悲しみの果て、とか?
でだ。
映画の話に戻すとね、
村上春樹でいう「グレート・ギャッツビー」が、
ぼくの場合、グッド・ウィル・ハンティングなんです。
これなんです。
彼がいうように、ぼくは、この映画のどのシーンを切り取っても、
とても美しいと思ってしまう。
すべてのシーンが重要で、
大切なことを語っていて、
心を揺さぶってきて、
どこかワンシーンでも欠いてしまったら、
映画が損なわれてしまう気がする。
主人公のウィルは親がいなくて、
引き取られた家でさんざん虐待を受けて育ってね。
俗にいう不良なんだけれども、
100年に1度っていうくらいの天才で
ノーベル賞級の問題をスラスラ解けてしまう。
そのウィルが
過去に自分をいじめてきた相手をぶん殴るシーンも。
ハーバードのバーで、仲間に絡んできた学生をウィルが言い負かすシーンも。
有名な数学家であるランボー教授が、
ウィルの書いた証明を手に膝をついて打ちひしがれるシーンも。
そのランボー教授と、精神科医のショーンが、ウィルのことで口論するシーンも。
もうどれも。
すべてが、ぼくの心を揺さぶってくる。
この映画の何が、こんなにもぼくを惹きつけるんだろう、
と考えてみると。
■まず1つめ、仲間に対する憧れ。
ウィルには、幼馴染の仲間が3人います。
いつも一緒に遊び、酒を飲み、
ケンカをし、女をひっかける。
まあ、悪友。
不良仲間。
ぼくは、それがたまらなく羨ましい。
っていうのも、
ぼくはもともと人と仲良くなるのが得意じゃなくて、
自分のすべてをさらけ出すような、
友人ってもったことがないから。
あー、酒飲みてぇ。
あー、もう勉強したくねえ。
あー、あいつ、ぶん殴りてぇ。
あー、ヤリてぇ。
こういうね、煩悩に溢れた言葉をね。
もちろん、心の中では思うんですよ。
めっちゃ思う。
でも、それを、人とシェアしたことがない、
というか、
人の前で、発言したことがない。
それは、人にどう思われるかが気になるからだし、
人に引かれて避けられるのが怖いからで。
だから、そういう欲望を丸出しにして生きるのを避けてきた。
でも、ウィルとその仲間たちは、
こういうの全部オープンじゃないですか。
それがとても清々しく見える。
すべてをさらけ出して、
それでもなお、繋がっていられる関係に対する憧れ、
とでも言おうか。
それがたまらなく羨ましい。
ぼくもまた、
今、自分がまとっている、
こうあるべき、とかそういう道徳感情を
すべてかなぐり捨てて、
ありのままをさらけ出して生きたい。
それでもなお自分をいいと思ってくれる人と
つながっていきたい、って思っちゃう。
■で2つめ、圧倒的強者を前に打ちひしがれる人に対する同情。
ランボー教授は数学者としてもちろんすごい。
でも、それを軽々と越えてくるのがウィルで。
ウィルが解いて見せた難問の証明を手にひざから崩れ落ちるシーンなんて、
悲しくて見ていられない。
ランボー教授にめちゃくちゃに感情移入してしまうんです。
っていうのも、その気持ちが分かるから。
ぜんぜん、次元の違う話ですけどね。
ぼくも、これまで生きてきてね。
自分よりすごい人、とか、
もう、一生努力しても追いつけないだろ、っていう人を
たくさん見てきたんですよ。
1回目の大学生のときも、
社会人のときも、
もちろん今だって。
そんな人がたくさんいる。
そういう人をみたときにね、
自分との能力差に、打ちひしがれるときがある。
ああ、なんでこんなに差があるんだと。
彼らが朝飯前にできてしまうことが、
ぼくは何時間も、または何日もかけないとできない、とか。
そういう絶望感を感じることが、これまでも何度もあった。
だから、分かるんだ。
教授の気持ちが。
それとね、さらにいうとね。
教授の助手ですよ。
彼はね。ウィルが登場するまでは、
教授の一番弟子みたいに期待をかけられていたのにね。
ウィルの登場によって、
教授の関心が自分からウィルに移り、
自分の立場がなくなる。
もはや、数学よりも、
コーヒーを淹れさせられたり、
雑用係みたいな扱いになる。
もう、かわいそうでならないんです。
これまた、ぼくも経験があるんです。
社会人のときにね。
期待された仕事ができなかったときにね、
ぼくの仕事を、代わりの人がやるようになってね。
上司はぼくに対する失望を隠さなかった。
それが悲しくて悲しくて、本当に、とても悲しかった。
職場のデスクで、泣き出しそうだった。
愛着障害ゆえなんですけどね。
人の期待に応えられないときにね、
まあ、いいか、と思えないんです。
すさまじく落ち込むんですよ。
もう人生終わりだ、っていうくらいに。
こういう経験があるからね、
ランボー教授の助手がかわいそうでかわいそうで、
激しく同情してしまうんです。
■で3つめ。精神科医ショーンのウィルを思う気持ち。
これは、映画のもっとも重要なシーンかもしれない。
ランボー教授とショーンが言い合うところでね。
ショーンがいう。
「あの子(ウィル)を敗残者よばわりしたら許さんぞ」
この発言、実はウィルがドア越しに聞いているんですけど、
2人は、そのことを知らないうえでの発言でね。
ウィルがいないと思っているからこその本音。
最終的に、ウィルの中に、ショーンを信頼する気持ちが、
人を信じる気持ちが生まれてくる、っていう流れなんですけど、
ぼくはこのシーンをみるたびに、
自分が、愛着障害を克服しようと受けてきたカウンセリングを
思い出してしまう。
ぼくをみてくれたカウンセラーさんもね、
やっぱり、ぼくのことを本当に大切に考えてくれて愛してくれた。
カウンセラーとクライエントという関係を越えてね。
変な意味じゃなくですよ。
ショーンがウィルを大切に思うように、
いや、それとは比べものにならないくらいの圧倒的な力でね。
だってね、
ぼくは自分のことを思って泣いてくれる人になんて、
出会ったことがなかった。
自分が抱える苦しさを100%理解してくれる人になんて、
出会ったことがなかった。
一人じゃないんだ、って思えた、初めての体験だったんです。
で、ぼくはね、
ショーンがウィルに寄り添う姿をみるとね、
同じように、カウンセラーさんがぼくを思ってくれた気持ちとか、
カウンセリングでのこれまでの軌跡を思い出してね、
やっぱり心が震える。
■まとめ
こんな感じで、映画のストーリ―が自分の人生とバシバシに重なってくる。
って、ここまで書いてきて、1番は、
環境のせいで自分の力を発揮できないウィルと、
愛着障害のせいでやっぱり100%の力を出して生きてこれなかった
自分が重なっているかもしれない。
まあ、長くなっちゃったのでこのあたりで。
心の問題を長く抱えてきて、
逆境の中で生き延びてきた人には、
訴えかけてくるものがある作品だと思うので、ぜひ。
唯一、気になることがあるとすれば、
ヒロインが、もう少し、ぼく好みの人だったらな。(ボソ
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