自分よりもすごい人と一緒にいると萎縮する。

このすごい、っていうのは、色々な意味を含む。

たとえば、自分よりも頭がいい人とか。
自分よりも、話すのが上手な人とか。
自分よりも、人と仲良くなるのが早い人とかね。

要は、そういう人たちに対して勝手に劣等感を感じてしまって、
萎縮しちゃうってことなんです。

もっというと、自分と相手の間に壁をつくっちゃう。

 

たとえばね、

先生が学生4、5人に対して、
学問上の大切なテーマを話してくれるとするじゃないですか。

で、ぼくは、それを上手く理解できなかったとする。
難しいと感じたとしますよね。

一方で、自分以外の残りの人たちがね、
先生と何やら、熱心に議論をし始めた。

そのときは、こういうことが言えるのでは?
こうなったら、どうなんでしょう?

とかね。

こういうときね、
ひどく自分が無能な人間に思えてくる。

でね、萎縮しちゃうんです。

先生と別れたあとでね、

「いやぁ、先生のいうこと、全然わからなかったわー。」
みたいに、軽々言えたらいいんですけどね。

なんだろう。それができない。

バカと思われるのが怖いのか。
周りの人たちを信じることができていないのか。

なんか、言えない。

で、それを隠そうとしちゃう。

分かったようなフリを装ってしまう。

これが一番よくないんだよな。

ごまかそうとするから、
ぎこちなくなる。

そこで人との間に壁ができちゃう。

 

コミュニケーション能力の問題もそう。

話の上手な人とか、会話に慣れている人って、

うまく周りの人の話を引き出してくれるじゃないですか。

例えば、そういう人たちがたくさんいる中に、
自分が混ざるとする。

ぼくがうまく会話に入っていけなかったりすると、

その会話上手な人が、
気を遣って話を振ってきてくれたりする。

それは、もう善意以外の何物でもなかったりするんだけど、
そのことにも、傷ついたりする。

自分のコミュニケーション能力のなさに、
ひどく落ち込んだりもする。

で、こんなに話ベタで申し訳ございません、
みたいな感じで、これまた劣等感を感じて、

さらに、会話に入っていけない、なんてことになる。

 

もう、頭のいい人に囲まれることにしろ、
コミュニケーション能力が高い人に囲まれるにしろ、

自分が劣等感を感じてしまうのはしかたのないことなんだよね。

ただ、それを感じたうえで、どう行動するか、が大切で。

できないことはできない、
苦手なことは素直に人に甘える。

でも、自分ができることは、頑張ってみる。

そうやって、生きる方が、
無理に何かを隠して、
バレないようにコソコソと生きようとするより、

相手にとっても、
なにより、自分にとってもいい気がするんだよなあ。

 

生まれたときから、こういうことに悩まない人だっているじゃない。

また別のことで悩んでいるのかもしれないけれどね。

ただ、ぼくを含めた、愛着障害を抱えてきた人ってね、

人がつまずかないようなところでつまずく。

人と比べて勝手に劣等感を感じて、
落ち込んだり、悩んだりしたりして、動けなくなったりする。

本心では、人と繋がりたいし、
一緒に楽しい時間を過ごしたいし、
心で触れ合いたい。

でも、傷つくようなことがあると
疑心暗鬼になってすぐに人を疑っちゃう。

壁を作って自分の中に閉じこもっちゃう。

つくづく苦労が多いなと思うよ。

自分でも、自分のことをね。

でもね。

そこで終わってしまったら、
すべての人に壁を作って、
そのままにしておいたら、
もうずっと人と繋がることができないじゃない。

だからこそ、それを克服しようとすることに意味があるんじゃないか。

もう1回、もう1回って、
震えながら一歩前に進もうとする。

人からみたら小さな小さな一歩だよ。
前に進んでいるのかも分からない一歩だよ。

でも、それは、自分を変えようとする行動で。
苦しくても、小さくても、だから、その一歩に価値があるんじゃないか。

ぼくは、まだ頑張ろうと思うよ。

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