スーパースターを唄って。(薄場圭著)。弱者が立ち上がる姿にこうも心を揺さぶられるのはなぜだ。

凄まじいほどの貧困。

主人公の少年(雪人)はスラム街のボロ小屋みたいなところに住んでいて、
中学生の姉ちゃんは、薬中で死んだ母さんが作った借金を
身体を売って返済してる。

雪人は、万引きをかばってくれたことをきっかけに、同級生の少年(メイジ)と仲良くなるのだけど、彼もまた親からネグレクトを受けていて一人ぼっちで。

やがて3人で生活するようになり、そこで姉ちゃんの趣味だったHIPHOPを聞く。

HIPHOPってさ、アメリカが発祥なのだけど、
虐げられた人たちが鬱屈した気持ちをぶちまけるものとして成長して。

そのHIPHOPのミュージックをメイジは作り始め、
雪人もまた、メイジの曲にのせる詩を書き始める、、、

2人にとってHIPHOPシーンでの成功が、この貧困を抜け出すための最後の希望になっていく。。

 

このマンガはまだ3巻しか出ていなくてさ、
でもさ、すげえんだ。

とにかく熱い。(語彙が足りない
震える。

そして重厚なんだ。

セリフの一言一言が重たくてね。

それに、ページの合間にモノローグが挿入されて、

それが雪人、メイジ、姉ちゃんとか登場人物の、心の奥底の本当の思いとか感情だったりするのだけど、それが深くて、何より美しくて。

そこには打算がなくて、

仲間を思う気持ち、
家族を、大切な人を思う気持ちがキラキラとして、

ピュアできれいで。

ページをめくるたびに、
「がんばれ!」とか、
「可哀そう、、、」とか、
「えぐぅ、、、」とか、
「かっけぇぇ、、」とか、
「むかつくな、、」とかさ、
いろいろな感情とか思いが喚起されるんだ。

なもんで、お腹がずっしりと重たくなって、

2,3話よむごとに、ふーっと休憩したくなる。

そのくらい、密度が詰まりに詰まっていて。

なんつってもまだ3巻しかでていなくて、
ここから、ストーリーがどんなふうに展開していくのかが
楽しみでしょうがない。

 

とあらすじはこんなところにしておいて。

こういうね、主人公が社会の底から這い上がってくような話をぼくは好むんだ。

この「スーパースターを唄って。」もそうだし、
「極東学園天国(日本橋ヨヲコ著)」もそうだし、
映画でいえば、
「グッド・ウィル・ハンティング(ガス・ヴァン・サント監督)」もそうだ。

それはなんでなんだろうと思っちゃった。

なんでぼくは、社会から虐げられて、疎外されて、
貧困にあえぎ、苦しんでいる人がそれでも、それでも、と前に進もうとする姿に
ここまで心を動かされるのか、と。

で考えてみると、

これは主人公が自分と重なって、感情移入できるからなんだと思う。

っていうのも、ぼくがぼく自身を、弱者の側の人間と認識していて、
そこから這い上がり、弱者なりのカウンターパンチを社会にぶっ放したいと思ってる。

上に挙げた作品にでてくる人たちは、自分がそうなりたい姿、希望であって、
だからこそ、そういう作品に励まされるし、元気を、生きる勇気を、
もう一度立ち上がるガッツをもらえるんだと思う。

 

でだ。

ぼくが、「自分を弱者の側として認識している」というと、
不思議がる人もいると思うんだ。

どこが弱者だ、と。

だってね。

小学校では勉強ができてずっと学級委員をやって、
中学校では生徒会長もやって。

高校ではたくさん勉強して、
日本で最難関ともいわれる大学に現役合格して。
大学にいる間に論文をかいて、
海外での発表もこなして。

大企業に就職したあとは、
長期の海外研修にも参加させもらって。
働きながら勉強して医学部に再入学して。

たしかに、実績だけみたら、
ちっとも弱者の立場にあるようには見えないよね。

 

でもね。

ぼくは周りの人たちを見て思うんだ。

自分以上に苦労している人はいるんだろうか、って。

もちろんね。

苦労なんて比較できるもんじゃないよ。
それに、ぼくは貧困に苦しんできたわけでもないし、
衣食住に困ったこともなかった。
だから、そのことだけで弱者じゃねえだろ、って言われれば、
何も言葉を返せない。

でもね。

やっぱり、ぼくは、人生をハードモードで生きてきたっていう
自負があるんだ。

 

まず、ぼくは、宗教3世として生まれて、
小さい頃から、「こう生きるべき」っていう道徳のもとで育てられた。

別に、悪いことしたら殴られた、とかそういうことじゃなくて。

例えば、人には優しくしなさい、とか、
人には誠実でありなさい、とか。

そういう「ルール」が初めから与えられていて、

幼少期のぼくは従順で素直だったから、
その言葉をまっすぐに信じたんだ。

いじめられている子を助けてあげるとか、
クラスがうるさくなったら学級委員として
「静かにしてくださーい!」とかいって注意する、とか。

そういうふうにして、ぼくは超がつく優等生になった。

これってね、今思うと、とても不幸なことななんですよ。

子供のときなんてさ、人を助けたりとか、先生の言うことを守ったり、とかよりもさ、
もっとのびのびと、自分のやりたいことを夢中でやってみたり、
多少ルールを外れて、ハメを外してみたりすることの方が大事じゃないですか。

そういうことやって、周りに注意されたり、衝突したりしながら、
人と仲良くなったり、一緒に生活したりすることを学んでいくもんだと思うんです。

でもぼくの場合は違った。

自分が本当に思っていること、感じたことを表現するのは稚拙なことで、
人に求められていること、すべきことを優先した。

そして、それが正しいと思っていた。

だって、宗教によってそう教育されていたから。

ぼくに子供らしさなんかこれっぽっちもなくて、

子供のときに、子供として生きることができなかった。

やがてね、自分の気持ちをぜんぜん外に表現しないもんだから、
周りの人たちも、ぼくといてつまらなくてね、

友達がいなくなった。

ここから人生が狂い始めて。

あれ?
宗教を信じていたら、幸せになるはずなのになぜ、ぼくには友達がいない?
なぜ、こんなに毎日がつまらなくて苦しい?

 

親は、子供の教育をすべて宗教に丸投げしていた。

親との間に、
学校で何があったか、とか、
友達とどんなことをしたのか、とか、
そういう会話はぜんぜんなかった。

親は、宗教の集まりに参加して、一生懸命に祈っているだけ。
子供の気持ちには無頓着だった。

ぼくが、人生のことで、宗教のことでなにか疑問を感じたとしても、

結論は、じゃあ、一緒に祈ろう、っていうだけなんだ。

友達もいない。
親も話を聞いてくれない。
じゃあ、いったい、誰がぼくの気持ちを、苦しみを理解してくれるんだ?

で、ぼくは、結局、
今の苦しみを解決できないのは信じる気持ちが足りないからで、
もっと宗教の活動を頑張らないといけない、っていうふうに泥沼にはまっていく。

なんとなく、ぼくの人生の苦しみが見えてきたでしょうか?笑

 

一見、華々しい経歴をもっているように見える裏で、
凄まじい葛藤があったんですよね。

自己評価の低さに苦しんで、
過食症みたいになったり、
もう消えてしまいたいと思ったことも無数にあったし、
今、こうして生きていることが奇跡のようなもんなんです。

そういう経験があるから、
自分で自分を、弱者の側においてしまうんだろうと思うんですよね。

ああ。

ぼくもいつか。

bump of chicken。

弱者の強烈なカウンターパンチを。

 

コメント