尊敬するブロガーさんの記事が唐突に読めなくなってしまって悲しい。

自由ネコさんというブロガーがいた。

ぼくは、この方の文章が大好きで、

いくつもの記事をブックマークしていたんだ。

いつでも見返せるようにと。

でも、突然、非公開になってしまった。

 

ある日、ブックマークしていた記事を再読しようと思って、

クリックしたらね。

記事がみれない。

驚いた。

え?なんで?

混乱。

 

はてなブログ界隈では有名な方。

読者数も多くて。

ここ数年は記事の更新も減って、

ブログに対するモチベーションが下がっちゃってるのかなあ、

とは思っていたけど、

なんの予告も通告もなく、

急に記事が見れなくなったもので、

ビックリした。

 

何かあったんだろうか。

病気とか、何か。。。

不幸なことでなければいいのだけど、、、

そんなことを思った。

 

大切に思っていた、というと、言い過ぎかもしれないし、

何か付き合いがあったわけでもないから、

そんなことを言う権利もぼくにはないのだけど、

好ましく思っていたものが、急になくなってしまう。。。

そんな欠乏感、悲しみ、が確かにあった。

 

もうその記事は読めなくなってしまったのだけど。

自由ネコさんの、自己肯定感が低い、ということへの考察記事が

とても印象に残っていて。

そうそう、まさにそうなんだよ!

って、大共感をともないながら読んだ記事があるんだ。

 

それはこんなような記事だった。

平均台の上を歩いていることを想像してって。

体操の授業で使われるようなやつね。

自己肯定感の高い人ってのはね、

それはただの平均台なんだ。

落ちたとしても、下にはマットもあるし、

なんてことない。

怪我なんかするわけない、っていう安心感のうえで、
台の上を歩けるんだ。

でも、自己肯定感が低い人ってのはね、

それは平均台なんかじゃない。

ビルとビルの間に棒が渡されていて、

その上を歩かされているようなもんなんだって。

一歩歩くごとに、恐怖なんだ。

安心感なんて、これっぽっちもない。

ビクビク、ブルブル、震えながら歩くしかないんだ。

 

何をいっているかっていうと、

この平均台とか、
ビルとビルの間に渡された棒の上を歩くってのは、

そのまま、社会で、人間関係の中で生きる、っていうことの比喩でね。

自己肯定感が高い人ってのは、

人とのやりとりで、ちょっとやそっとのことでは
傷つかない。悩まない。

他者が自分にいきなり敵意を向けることなんかないと思ってる。
自分は、周囲に受け入れられる存在だと、心の底から信じてる。

こういう人にとって、社会の中で生きる、って容易い。
まるで平均台の上を歩くようなもの。

多少、ミスして、マットの上に落ちたとしたって、
また登って、歩き始めればいい。

 

でも自己肯定感が低い人ってのはそうじゃない。

自分が揺らぐ。
繊細ともいえるかもしれないけど、

人のちょっとした言葉、挙動で悩む。

それは傷つく、なんて生易しいものじゃなくて、

自分の存在がまるごと否定されたような、
谷底に突き落とされたような、
生きる意味を否定されるような、

そのくらいのショックを、人間関係の中で受けることがある。

周囲から受け入れられるためには、
自分を繕わないといけない。

でないと、村八分になってしまう。

そうなると、社会の中で生きようとしたとき、慎重にならざるを得ない。

ビクビクしながら、進まざるを得ない。

これは、ビルとビルの間に渡された棒の上を歩くっていうこと。

 

こういうことを自由ネコさんは、
伝えてくれていたのだけどね。

ああ、、、
自己肯定感が低いゆえの苦しさを理解してくれている人がいるんだな、、、
って安堵のような気持ちを抱いたんだよね。

この記事を読んだときに。

で、その記事をお気に入りで何度も読み返していたんだ。

 

自由ネコさんは他にも、

おそらくはご自身が、自己肯定感が低いゆえの苦しみとか葛藤を
乗り越えた(あるいは乗り越えようと努力されてきた)からこそ、だと思うのだけど、

そういう人に向けた記事をたくさん書かれていて。

全部読んだ。

とても熱がこもっていた。

苦しいときに、とても励まされたんだ。

ありがたかった。

推しは推せるときに推せ、っていう言葉があるけど、

今、あるものが、いつもあるわけじゃない。

それは唐突になくなってしまうかもしれない。

そのことを痛感したな。

自由ネコさんが、元気に幸せにしてくれているといいなあ。

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